京の地名あれこれ
丸 太 町 通 まるたまちどおり
「今出川通」に平行して一本南の通り。東は銀閣寺近く、鹿ヶ谷通から、西は右京区嵯峨釈迦堂大門町まで延びている、長ーい通り。
京都の通り名わらべ唄、歌詞のはじまりの通り。
まる たけ えびす に おし おいけ
あね さん ろっかく たこ にしき
し あや ぶっ たか まつ まん ごじょう
せきだ ちゃらちゃら うおのたな
ろくじょう しち(ひっ)ちょうとおりすぎ
はちじょう(はっちょう)こえれば とうじみち
くじょうおおじでとどめさす ♪
名前の由来は、この通り沿いの西堀川に材木商が多かったため、丸太町通の名がついたといわれている。
京都御苑は、今出川通りと、丸太町通りに挟まれた大きな区画。岡崎神社、平安神宮、熊野神社、二条城、嵐山の妙心寺、など、寺社仏閣が多い通りでもある。
平安京の春日小路に当たるが、江戸時代の地図を見ると「丸田町通」と表記されていることもあるらしい。
今 出 川 通 いまでがわどおり
「銀閣寺」から「京都大学」の敷地の間を通り、「京都御所」を南に、「白峯神社」「北野天満宮」を北側に見ながら北野白梅町まで続く東西の通りを「今出川通り」という。ここに川が流れていたのか?
この通りは、中世の頃の「北小路通り」にあたる通り。この「北小路通り」の北側をほんとうに「今出川」という川が流れていた。通り名は川の名前に由来するそうだ。
(写真は「白峰神社」は球技の神様。特にサッカー関係の人に人気がある)
川の名前「今出川」は,賀茂川上流で流入した中津川が、再び分出したので「今出川」と名づけられたという説や、中津川の水が ”今出てきた川” ということからきているという説がある。
その「今出川」の水は、「中古京師内外地図」によると、今出川の上流部に“此水雲ケ畑ノ中津川ヨリ来ル”と記されている。北区、雲ケ畑(くもがはた)を流れる中津川(なかつがわ)から流れて来ていたということらしい。
この川「今出川」は、大正のはじめ頃までは、同志社大学前から河原町通りにかけて残っていたが,大正6年(1917)、京都市電開設に伴う道路の拡幅工事のため姿を消した。最近までほんとうに川が流れていたんだね。
宇 治 うじ
いきなり「宇治」。京都市内ではない。
998年、藤原道長が建てた別荘、平等院に由来し、後に平等院鳳凰堂となった阿弥陀堂のあるところ。1008年初出とされる「源氏物語」の「宇治十帖」の舞台となっている。
「宇治十帖」とは、源氏物語五十四帖のなかで、第四十五帖「橋姫」から最終の「夢浮橋」までを指す。「源氏物語ミュージアム」もある。
「宇治」の地名は、百人一首、喜撰法師(きせんほうし)の「我が庵は 都のたつみ 鹿ぞ住む 世をうぢ山と 人はいふなり」という句に登場する。1830年の書物『百人一首一夕話』によると、第15代・応神天皇(おうじんてんのう)の4番目の皇子である“菟道若郎子(うじのわかいらつこ)”が、住んでいたため、「菟道」という漢字が当てられていたという記録もあって「うじ」という地名の由来だとされていた。
しかし、「鵜路」や「宇遅」「宇知」といった漢字が当てられていることもわかり「菟道」を由来だとすることはやや怪しくなってきたようだ。
「うじ」は北、東、南は山に囲まれており、西は巨椋池(現在は存在しない)にふさがれていたことから、“内にある地”「うち」がいつしか「うじ」と呼ばれるようになったとも。
うさぎのみち=莵道。 また、ウなる道=諾道(ウナミチ)=一番良い道という説など、 諸説。
錦 小 路 通 にしきこうじどおり
錦小路通りの錦市場は、外国人観光客にも人気のスポット。なぜ「錦小路」という呼び名に?
錦市場商店街のホームページには、「だれが呼んだか、”くそ小路”」とある。え、あの食の宝庫が??
その歴史は、平安時代からと言われ、すでにこのあたりに市が立っていたと推測されている。
最初は、御所に出入りする際に具足(鎧と兜)を外す場所であったことに由来し「具足小路」と呼ばれた。その後なまって、「糞小路」となり、勅命で四条通をはさんで南隣の綾小路にちなんで錦小路に改められたそうな。(宇治拾遺物語の記述による)
また、この地は、質の良い地下水にも恵まれていた。一年を通して15〜18度という水温を保つ地下水は「錦の水」とよばれる。冷たい地下水は魚鳥の保存に適している。錦市場の各店にはかつて、この名水を利用した「降り井戸」があった。生鮮食材を保存する、いわば冷蔵庫だったのだ。
人口の多い中心部にあったこと、御所への納入に便利な場所であったことも錦市場発展の理由と考えられる。
1615年、江戸幕府が、上の店(かみのたな)、錦の店、六条の店の三店魚問屋(さんたなうおとんや)の一つとして京都に公認したことが、本格的な魚市場としての錦市場の始まり。青果店、鮮魚店、乾物店、惣菜店などが並ぶアーケード、石畳の狭い通りのこの市場は、また、京の台所とも呼ばれてきた。日本画家、伊藤若冲の生家がここの青果店であったことも知られている。
修 学 院 しゅうがくいん
「修学院」は、かつて当地に存在した比叡山下の寺院である修学院に由来する。「旧愛宕郡修学院村」から現在の地域呼称「修学院」となった。町名ではない。
宮内庁管轄の「修学院離宮」が有名なため、離宮の名前を採って地名としたと思われがちだが、地名を採って「修学院離宮」とされた。17世紀中頃、後水尾上皇によって造営された。比叡山など後背の山並みを借景に、上・中・下の3つの離宮からなる広大な庭園には船遊びもできる浴龍池がある。最も高い場所にある隣雲亭からは、京の山並みを一望でき、晴れた日には大阪の境目あたりまで見えることがある。
「しゅがくいん」ではなく「しゅうがくいん」と読むのが正しいらしい。
嵐 山 あらしやま
メディアは、京都観光の象徴としてお決まりのように嵐山と清水寺をアップする。
地名としての「嵐山」は、保津川の右岸、西京区側。阪急嵐山駅がある近辺を言う。右京区側にあたる左岸、JR嵯峨野線嵯峨嵐山駅や嵐電嵐山駅あたりは「嵯峨」だが、両地域をまとめて「嵐山」と呼ばれることが多い。
『日本書紀』によると、487年に月読尊(つくよみのみこと)からのご神託により、宇田荒洲田(うらあらすだ)の地を奉ったとされている。
また、一説には、地名(荒子山)から来ているとか、山桜や紅葉を吹き散らす嵐を起こす山から「嵐山」となったという説もある。
地名ではなく、山としての嵐山は西京区にある。標高381.5m。登山することも可能である。但し遭難者が毎年しばしば出るほどの山であり、観光目的でハイキングをするには不向きだとか。
京 都 きょうと
そもそも「京都」という呼び名は?
一説。東アジアでは古来、「天子様の住む都」「首都」を意味する普通名詞として京(きょう)、京師(けいし)が多く使用されていたそうだ。中国、西晋時代に世宗(司馬師)の諱(いみな)である「師」の文字を避けて京都(けいと)というようになり、以後は京、京師、京都などの呼び名が用いられた。
日本では、794年、遷都したことに始まる平安京の後期「京都」が、定着したとみられる。造都当時は、旧都奈良に対して「北京」とも呼ばれた。以後、長らく奈良は「南京」「南都」と称される。
京(きょう)や京師(けいし)という呼び名も併用されていたが、次第に「京の都」(きょうのみやこ)、「京」(きょう)、「京都」(きょうと)が平安京の固有名詞のようになり定着していった。
京都は、古く詩文において中国王朝の都に因み、洛陽、長安などと呼ばれた。一説に、平安京を東西に分割し、西側(右京)を「長安」、東側(左京)を「洛陽」と呼んだという。ところが、右京すなわち「長安」側は湿地帯が多かったことなどから程なく廃れ、市街地は実質的に左京すなわち「洛陽」だけとなった。このため、「洛陽」とはすなわち京都を指す言葉になる。その一字を採って「洛」だけでも京都を意味することになったとされる。
また一説に、平安初期の文学に現れる洛陽、長安はそれぞれ左京、右京を指しているとは考えられず、ともに都全体を指していると考えられるところから、長安とも洛陽とも呼んでいたものが、のちに洛陽のみが使われるようになったと考えられるという。現在でも洛南・洛北・洛西・洛東といった呼称はよく使われている。例「洛北高校」「洛南高校」等。また、東京を含めた京都以外の地方から京都に行くことを「上洛する」「入洛する」ということがある。また京域内を「洛中」、京域縁辺を「洛外」と呼んだ、「洛中洛外図屏風」は、1500年始め頃、宮廷絵師の土佐光信(とさみつのぶ)が描いた六曲屏風など、多く残されている。
千 本 通 せんぼんどおり
千本通りは平安京の時代、中央を南北に走るメインストリートだった。朱雀大路という。北は船岡山(ふなおかやま)から、南の正面玄関に当たる羅城門(らじょうもん)までを貫く、道幅85メートルもある平安京で一番大きな通りだった。
平安の埋葬は、天皇や高貴な人は火葬だったが、庶民は風葬が一般的。 死体を燃やすのには薪がたくさんいるため、風葬地に置いて, そのまま風化させていた。
「 蓮台野 」と呼ばれる風葬地があったのが、この朱雀大路の北端、船岡山の西側。この場所まで、毎晩おびただしい数の死者が運ばれる道には、死者を弔うために、道の両側に無数の卒塔婆が立てられていたそうな。「千本」という数は「数えきれない」「無数の」という意味を示しており、そこからこの通りが「千本通り」と呼ばれるようになった。
もう一説には、『日蔵夢記』から。僧日蔵が地獄へおちた醍醐天皇と出会い「自分を地獄の責め苦から救い出すために千本の卒塔婆を立ててほしい」と訴えられたので、卒塔婆千本立てたことに由来するという説。
こんな怖い光景が背景にあったとは。それにしても、支配、被支配の哀しいありようは今も昔も変わることなく。
百 万 遍 ひゃくまんべん
「百万遍知恩寺」。今は、毎月15日の「手づくり市」で大賑わい。ここが地名の由来の元となったお寺である。
後醍醐天皇の時代、今から700年ほど前の1331年。京都の町で大きな地震が起こり、その際に疫病が大流行。鴨川の河原には、病死された遺体の山ができるほどの惨状だったようだ。ちょっと今の新型コロナに重なる。
そのありさまに、天皇は、すべての京都の寺社に「祈祷をし疫病を鎮めよ」と命を下す。
知恩寺の8代目住職だった空円上人が、7日7晩、百万回(遍)の念仏を唱え続けたところ、疫病が鎮まったそうな。で、後醍醐天皇から「百万遍」という称号をご褒美に賜り、「百万遍知恩寺」と称するようになる。 以来、念仏を唱えながら大念珠を繰る「百万遍念珠繰り」は、寺の恒例行事となっている。
「百万遍知恩寺」の周辺は「百万遍」と呼ばれるようになった。ちなみに「百万遍」はお役所のいうところの地名でない。いわば愛称だがバス停名としても使われている。
京都大学は寺の南向かいに位置する。
太 秦 うずまさ
古くは「うつまさ」とも。
聖徳太子建立の広隆寺や東映太秦映画村があるところなので、幅広く知られている右京区の地名。
由来には諸説あるが、渡来人の秦(ハタ)氏に由来することには異論がない。
『日本書紀』によると、ばらばらに散らばっていた秦の一族。雄略天皇が詔を出して秦酒公のもとに馳せ参じるべしとした。720年、秦氏は感謝の気持ちで天皇に絹を献上し、庭にうずたかく積んだので、「禹(う)豆(つ)麻(ま)佐(さ)」という姓を賜り、秦氏の本拠地もこう呼ばれるようになった。偉大な秦氏という意味から「太秦」の字が当てられたともいう。
また、聖徳太子の「太」と秦氏の「秦」をくっつけただけでこう読ませたという説もある。
では「秦」氏の「秦」は、なぜ「ハタ」と読まれたのか。こちらも諸説あっておもしろい。写真は広隆寺の「弥勒菩薩像」
祇 園 ぎおん
「清水寺」の北側に位置するあたり。四条通と東大路通りが交わるところにある八坂神社の西門前から西は鴨川までの四条通南北一帯をいう。八坂神社がかつて「祇園社」と呼ばれたことに由来。
なぜ「祇園社」か。八坂神社に祀られている祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)。
素戔嗚尊は「牛頭天王(ごずてんのう)」と同体とされており、インドの「祇園精舎(ぎおんしようじや)」の守護神だったそうな。「牛頭天王」をこの地に祀ったのは、朝鮮半島の高句麗からやってきた伊利之(いりし)と伝えられており、これが祇園社の始まりだと言われている。876 年の創建と伝えられる。
「祇樹給孤独園(ぎじゆぎつこどくおん)」の略。「祇樹園(ぎじゆおん)」 → 「祇園精舎(ぎおんしようじや)」と変遷。そこは、悟りを開いたお釈迦さまが説法を行った場所であり、弟子たちの仏道修行の場でもあったそうな。
この地域は、鎌倉時代に門前町として、鳥居前町が発達したが,応仁の乱後衰退。江戸時代初期から再び祇園社や清水寺などの参詣者を相手に茶屋が並びはじめ,以後歓楽街として発展。
京都では八坂神社を「祇園さん」,茶屋町を「祇園町」と呼び分けることもある。大みそかの夜から元旦にかけて八坂神社に詣でる「おけら詣り」や,7月の祇園祭でにぎわう。
それにしても、全国には30余りも「祇園」とつく地名があるとは。「銀座」と同じだね。
鴨川 賀茂川 加茂川 かもがわ
「かもがわ」の名前の由来は、平安京造営の前からそのほとりに住んでいた「賀茂氏」に由来しているというのが一般的。
上賀茂神社の御祭神は「賀茂別雷大神(かもわけいかづちおおかみ)」。下鴨神社の御祭神は、神の子「賀茂別雷大神)」を宿した賀茂氏の姫「玉依媛命」。
天武天皇の678年には、「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」が造営され、御社殿の基が築かれる。平安京遷都以降は、皇城鎮護の神として尊崇を集める。
「かもがわ」は明治29年施行の旧河川法制定以降(昭和399年の新河川法制定に伴い廃止)京都府が管理する一級河川の区間を定め、「鴨川」と表記。正式には一級河川として指定した区間全てを「鴨川」としている。
賀茂氏の氏神をまつる上賀茂神社と出町付近の下鴨神社にちなんで高野川合流点より上流を「賀茂川」、下流を「鴨川」と書かれることが多い。
とはいえ、行政が「鴨川」として管理する以前から、沿川や地域の住民の間では「鴨川」「賀茂川」「加茂川」と主に三種類の漢字が使用されてきたようだ。野鳥の「鴨」が多く飛来するから「鴨川」という説は、諸説の中には含まれていない。
出 町 柳 でまちやなぎ
京阪電車と叡山電鉄の発駅名。
「出町(でまち)」と「柳」の二つの地名が合わさってできたらしい。
「出町」は、「洛中(らくちゅう)から出た所、出入り口にあたる町」という意味らしい。鴨川西岸にあたる河原町今出川付近一帯を指す俗称。
「柳」は鴨川東岸一帯を指し、そこには「上柳町」「下柳町」という町名が今でも残っている。
「出町柳」には、柳の木がいっぱいあったのかなと思っていたが、あながち間違いではないかも。
「洛中」は、御土居(おどい)の中を、「洛外」は外を指す。
*御土居:豊臣秀吉によって造られた、全長約22.5kmの京を囲む土塁。御所や二条城は「洛中」にある。
写真は鴨川西岸の柳。
河 原 町 かわらまち
「四条河原町」「河原町丸太町」等々、京都に入ればいやでも耳にすることになる「河原町」は、南北の通りの名前。
その由来には諸説ある。
平安時代、嵯峨天皇の皇子であった源融(みなもとのとおる)が隠棲していた邸宅「河原院(かわらのいん)」からとられたという説。鴨川近くだからそう呼ばれたのだろう。
源融は、「源氏物語」の光源氏のモデルと言われている皇族。政治的な争いの末、鴨川近くの河原院に隠棲することになる。その河原院があった、五条河原町辺り。その場所にはエノキが植えられていて、河原院跡を示す石柱が立っている。隠棲とはいえ、皇子の邸宅。河原院は、東本願寺、西本願寺をしのぐほどの大邸宅だったそうな。エノキは邸宅内にあった森の名残とのこと。
いま一説には、豊臣秀吉による都市改造のときに、現在より200メートルほど広かった鴨川の河原を整備して作られた通りなので「河原町」とも。
*写真は五条河原町の邸宅趾を示すエノキと石柱。
烏 丸 からすま
「烏丸」と書いて「からすま」と読む。「からすまる」ではないところが、いかにも京都らしいはんなりした読み。 「河原町」 のひとつ西の南北の大通りである。なぜこの地名になったのかには諸説ある。
「烏丸」は、川原(かわら)洲(す)際(ま)が語源で、川原の砂州に沿った所という説。もう一つは「河原洲+マウル(朝鮮語で村の意味)」という説。
さらに、河原の洲の間、「かわら の す の ま」 が縮まって「からすま」となり、その音韻に「烏」と「丸」という漢字を当てた説。なぜ「烏丸」の文字を当てたのかは、よく分かっていないらしい。
そもそも京都盆地は、水が湧き出、小川が縦横に走る湿地帯であったことからというところは共通している。烏丸通りの場所も、小川が南北に流れていたらしい。昭和50年代の地下鉄工事で砂層が出てきて、川原洲があったことは確認されている。古地図をみると、「烏丸小路」とあり、平安京では細い道だったよう。戦前までは「烏丸」を「からすまる」と読んでいたような資料もある。
公家の烏丸(からすまる)家は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)真夏流ともいわれる。となると平安以前からあった地名なのか?むむ、深い。
清 水 きよみず
清水寺の名前の由来は、清らかな水の湧き出る「音羽の滝」に由来しているという。
遠く奈良の時代。奈良の僧、賢心(けんしん)の夢に白衣の老翁があらわれ、「木津川の北流に清泉を求めて行け」とお告げがあった。お告げに従って北へと歩き、京都の音羽山で一筋の金色の水が流れているのを目にし、その流れを遡る。と、清らかな滝のほとりで草庵をむすび修行をする老仙人、行叡居士(ぎょうえいこじ)と出会う。行叡居士は賢心に観音力を込めたという霊木を授け「この霊木で千手観音像を彫刻し、観音霊地を守ってくれ」と言い残して姿を消す。「行叡居士は観音の化身だ」と悟った賢心は、霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まり、778年であるという。以後、音羽山の草庵と観音霊地を守った。今なお清らかな水が湧き続ける「音羽の滝」は、清水寺の象徴ともなっている。
「清らかな水」がその語源だとすると、清水(しみず)ではなく、清水(きよみず)でなければならなかったのかなぁ。
日本の氏族の名前のひとつ、清水氏(しみずし、しみずうじ)はずっと後世に現れるようで、関連はなさそう。